先賢曰:「又曰居戌亥,月在辰巳,謂反背失陷,若有凶煞沖破,大凶,且有失明之虞,但若無煞有吉,秘經有云:『陰陽反背,反大貴』。」

例)

所謂、「日月反背」は太陽と太陰が陥宮に入ることを言い、

三方にあるのは、そう言われる。

太陽が酉戍亥三宮は皆弱陷となり且つこの時、三方には必ず太陰が巳辰卯の陷宮で来合する。賦文中の「日居戌亥、月在辰巳」は、実際は「日居酉戍亥、月在巳辰卯」に変更する必要がある。

又、太陽の酉は弱陥だが天梁と合せて平宮となる。三方には太陰巳の陥宮来合、その他の合方は無甲級星。会吉が多くない限り、陽梁の酉は「陥宮」とみなすことが出来る。よって太陽の酉戌亥三宮及び太陰の巳辰卯三宮は皆弱陷となる。

星曜が陥宮の時、性質を示すがマイナス面が多く、吉星による吉化作用の感応力が弱い。煞星或いは忌星の煞害作用に対する抵抗力も弱い。そのため「日月反背」の人は会吉が多く、行限が良くなければ、プロ意識が強くてもキャリアに対する考え方や実践がネガティブになりがちで、長い間物事を行うことができない。

この時、忌煞交沖があると一生忙しく、何も成し遂げられない。

これは《全書・諸星在命身及十二宮吉凶要訣》所說的 「曰月陷宮逢恶难、奔波勞碌走四方」、以及前此《全書・諸星問答篇》在論及太陽入命或大限逢太陽坐守時所說的「忌落平陷、致形反背、必主逆选、進而刑尅父母」。賦文中的「逆速」是指不順、困頓,至於「進而刑剋父母」を参考にしてください。

ここで、命盤のいずれかの宮が化忌或いは煞星にのみ照らされている場合、

通常、その宮位の事項の本質が良くない事を意味する。

必ずしもこの面で凶悪現象が起こるわけではないが、忌煞交沖を形成したら凶象は現れる。又、《全集・註解太微賦》には「曰月最嫌反背」時、以下の注解がある「曰月反背, 主人父母不得乃,餘情之義。」

前に述べた六親論では太陽は、父、夫、息子を順番に表すだけでなく、この面で家族関係の好壊を強調するものでもあり、太陰も同様ですが、母、妻、娘の順で表される。そのため「日月反背」命格は日月の入る宮位が弱陥で、更に会煞であれば

家族の愛情に不利が現れ易い。父母との刑剋が現れ易く、軽度の場合、家族間の愛情が薄く、重度の場合生き別れや死別が起きる。

「日月反背」命格は一生先祖の恩恵を得ないし家業に頼らない。

農業社会では、専門的な仕事のほとんどが父から息子へと受け継がれているため、「先祖伝来の事業に従わない」人は、一般的に、この人が発展を求めて外に出るのが最善であると考えられている。

太陽の星は「動」で、この傾向を悪化さる。

しかしこの現象は「日月反背」命格に限らず、若し太陽在陷宮坐命であれば

「家の仕事に頼らない」の作用がある。

《全書・諸星在命身及 十二宮吉凶要訣》には次の叙述がある。

「太陽守命於陷地、勞心費乃、雖化権禄亦為凶論、官禄不顯、先勤後惰、成敗不一、但出外離祖可吉」、「太陽守遷移宮,失陷者難招祖業,移根換葉、離祖或家」。

現代社会では、父親の事業が必ずしも息子に受け継がれるとは限らない。 人の職業選択は、当時受けた教育や雇用環境によって決まることが多く、個人の主観的な希望と相まって、前の世代が従事していた業界とは必ずしも関連していない可能性がある。従って「日月反背」の人は「不依祖業」としか言えない。しかし、開発するために必ずしも海外に行く必要はなく、人の外出の吉凶は、やはり遷移宮や命宮の吉凶を参考にして論じる必要があるが、《全書・諸星在命身及 十二宮吉凶要訣》の説にはならない。以上のことから、「太陽と月が落陥」の運命の人は、この世で大きな功績を残せる可能性が低いと思われがちですが、実際はそうではない。

例えば《全集・註解骨髓賦》には「曰月最嫌反背,乃為失輝」の時には次の注解がある。「然有曰月反背而多富贵者,要看本宮三合有吉化拱照不加煞是也」。

そして古伝賦文にも「陰陽反背,反大贵」があるため「日月反背」は吉星が多く会し、行運が良ければ仕事で大きな成功を収めることができる。

しかし、太陽は「動」であり「競争」なので、何かを成し遂げるとしたら、

懸命に努力し、苦難を乗り越え、激しい競争の末に成功を手に入れたと言える。

賦文中の「若有凶煞沖破、大凶、且有失明之虞」については日月が宮位にあり、弱陥で忌煞交沖は、それは非常に激しく、失明などの深刻な視覚障害が発生する可能性があることを意味する。

命例—蔣中正先生

読者が「陰陽反背、反大貴」という賦文の役割をよりよく理解できるようにするために、蔣中正氏の特別な例を示す。

蔣中正氏の命身宮は同宮で辰、太陰と鈴星が入る。太陽は戌から来会で「日月反背」命格。但し丁生まれで太陽化禄が命(身)宮に入る。並びに天同化権及天機化科が三合来会。命(身)宮は「三奇加会」宮位で、更に昌曲が会するので

命(身)宮は「陽梁昌禄」格となる。それだけでなく左輔が子宮から来会し、「拡大、持続 、安定」の作用があり、「三奇加会」、「陽梁昌禄」のプラス作用を更に発揮させる。命身宮の鈴星の五行は「火」で太陰とで水剋火、但し太陰化禄で「三奇加会」、昌曲、左輔来会の吉星増強となり、太陰、鈴星は「火水相剋」から「水火既済」に変わり非常に良い。また、遷移宮の戌は魁鉞夾で貴人の助けの作用がある。行限は逆行で幼年期から老年期まで太陽、左輔、文曲、太陰及び天梁の化科が先天命身宮を照らし、命格の「貴」を目立たせる。更に、後天命宮の行限での影響を観ると壬寅から己酉までの連続六個大限は連禄で非常に良い。但し癸丑、辛亥、 庚戍及び己酉大限では先天命宮か大限命宮は化忌が来沖する。先天命身宮は「日月反背」なので大限化忌来沖の時はより多くの苦労と多忙が生じる。

ここで説明しなければならないのは、辛亥限は大限命宮は無甲級星曜で巳宮の星曜作用を用い、辛干の巨門化禄は巳宮を双禄で挟み吉象。照らされる亥宮は化禄作用が同様にあるとみなされる。

蒋氏は浙江省奉化市溪口の裕福な家庭に生まれ、幼い頃(9歳)に父を亡くした。

甲辰限は太陽化忌が大限命宮を沖し、太陽は「父親の星」で且つ大限(先天)父母宮も凶で父親には不利。

父親の死後、兄弟は別居し、蒋氏と母親の王太夫人はわずかな土地しかなく、彼の生涯を見ると、両親からの庇護はほとんど無かった。

古傳賦文の「日月反背、主人父母不得力」である。

困難な時代に生まれた江氏は、故郷を離れ、若い頃に日本に留学した。 1911 年、蒋氏は 25 歳で、日本から中国に戻り、革命に参加し、数々の戦場で軍人としてのキャリアを開始した。その後、黃埔(香港)に軍を築き、北伐隊の指揮官を務めることを誓ったが、再び内外のトラブルに見舞われる。彼は中国の指揮を執った後、内政問題の為に3回倒れた。1949年(63歳)、立憲政府の台湾への移管を主導し、1975年に総統在任中に死去(89歳)。

蒋氏の人生経験を見ると、彼は高貴で傑出した側面を持っているが、故郷を離れ、一生懸命働き、激しい競争の中で人生の成果を上げた。 秘経には「陰陽反背,反大貴」という格言があり、本質的な命理条件ですが、時代背景の要因も無視できない。「日月反背」命格は社会が平和な時代で出世したいのであれば、目立つためには厳しい競争や苦難を乗り越えなければならないことが多い。

しかし、何かを成し遂げるために蒋氏のように故郷を離れる必要はない。 蒋氏の生涯の功績は世界的に知られているため、市場には多数の戦記本があり、蒋氏の斗数命盤の説明と検証に使用されている。

ここで著者は、読者の参考のために、「斗數宣微」の著者である觀雲主人の蒋氏に対する論断を転記する。

觀雲主人有云:「太陰守身命垣、在辰為失輝、經云‥『陰陽反背、反大贵。』陰陽在 辰戌丑未、本有至相照合之意、遷移宫太陽來合、曰月相會文昌、為極旺之垣、文曲來合、可謂昌曲並臨、禄權枓三奇拱照、賦云‥『科権禄拱、名譽昭彰』、义云‥『陰陽會昌曲、出世榮華』、此亦似之。太陰居辰、亦作飄篷之客、在外光榮、遷移宮復得魁鉞相夾、尤美 。按以上種種之權贵、主大富贵。鈐星主聰明機警、大耗主奔波不寧、操心勞力、消耗精神 。」

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